仏教では「運」ということは本来言いません。
「運がいい」「運が悪い」
そういうことは、本来ありません。
「運」の正しい意味を知りましょう。
「運」とは「運命」
「運命」とは、もともと、キリスト教の言葉です。
「運命」は神が与えたもの。
決して変えられないもの。
人の努力ではどうしようもないものです。
キリスト教は、この世はどうにもならない。
努力を奪ってしまう教えです。
神が与えた運命
神が与えた運命だから、運命に抗うことはできません。
運命に抗うことは、神への冒涜です。
神は、自分に似せて人間を造った、とも言います。
全知全能の神であったら、全ての人を生まれながら運の良い人にしたら良い。
ですが、自分の運命を恨み呪っている人のほうが多いのが事実です。
自分勝手な神
神ほど自分勝手なものはいません。
自分を信じるものは助ける。
自分を信じないものは、炎と剣でバツを与える。
聖書にはかかれています。
ですが、神は存在しませんので、恐れることはありません。
もしも、神が存在したら、こんな文章を書いている私が、真っ先に殺されなければなりません。
現時点で私は生きていますので、全知全能の神なんて存在しない事がわかります。
仏教を貫く「因果の道理」
かたや、仏教は「因果の道理」に貫かれています。
善因善果
悪因悪果
自因自果
善果は「良い結果」ですので、幸福です。「運命」という言葉を使ったら「幸運」です。
悪果は「悪い結果」ですので、不幸です。「運命」で言うところの「不運」です。
運命は神に決められるのではない。自分の行いで変えられるという教えが仏教です。
自分の努力で、自分の道を切り拓くことができるのが、仏教です。
幸福になるのも不幸になるのも、自分の種まき次第です。
「因果の道理」とは「因縁果の道理」
前述のとおりなのですが、「因果の道理」とは実は「因縁果の道理」です。
種を巻いてから結果が出るまでには、時間がかかります。
「縁」が整ってからやっと「果」が現れます。
人間の智慧は短期的視点でしか考えられません。
蒔いた種にウソはありません。必ず芽は出るのですが、縁が整うのに時間がかかり、何千年後に現れることもあります。
仏語に虚妄なし
仏の言葉にウソ・偽りはありません。
それを「仏語に虚妄なし」といいます。
仏はウソをつきませんが、人間はウソばかりついています。
ウソをつかないと生きていけない、悲しい生き物です。
神が自分に似せて造った人間は、ウソばかりついています。
神もやはりウソばかりついています。
全知全能の神なのに、なぜ悪魔(サタン)の存在を許しているのか?
神の力でサタンを滅ぼしてしまえばよい。
そもそも、万物の創造主の神が、なぜサタンを造ったのか?
矛盾だらけです。
「神も仏も同じ」と考える悲劇
「神」と「仏」、文字が違うから意味するところは違います。
それなのに「神も仏も同じ」と考えるところから悲劇が始まります。
日本人たるもの、神と仏の違いから、よく知って頂きたいと思います。
因縁果の道理から生まれる「感謝」
因縁果の道理が分かると「感謝」の気持ちが出てきます。
まずは「恩」を知るところがスタートです。
「恩」を知ろう
「恩」という字は「因」と「心」という漢字からできています。
「因を知る心」です。
この世に生まれることができた「因」はどこにあるのか?
生きていられるのは、誰のおかげなのか?
- 知恩・・・恩を知る
- 感恩・・・恩を感じる
- 報恩・・・恩に報いる
この順番が大切です。
自分の努力で結果は出たかもしれません。
しかし、自分一人が頑張ってもダメで、支え・応援してくれる人・環境などの縁があって結果が出たのです。
ありがたいことなのです。
その「恩を知る」ところがスタートです。
そこから「恩を感じ」、そして「恩に報いる」行動となります。
善が循環することで、「運命」は好転します。